古代ギリシア哲学における「遊び」の概念の二相:プラトンのパイディアとアリストテレスのレクリエーション
「プラトンからフイジンガへ:遊びの系譜」へようこそ。本稿では、哲学史における「遊び」の概念の源流の一つとして、古代ギリシア哲学におけるプラトンとアリストテレスの議論に焦点を当てます。彼らの「遊び」に関する考察は、単なる気晴らしや娯楽を超え、人間存在、社会、教育、そして究極的な幸福といった多岐にわたる哲学的問題と深く結びついていました。両者の概念を比較検討することで、後の哲学史における「遊び」の概念がどのように継承・発展していくかの一端を明らかにすることが、本稿の目的です。
導入:古代ギリシアにおける「遊び」の概念の意義
古代ギリシアにおいて、「遊び」(παιδιά, paideia)や「余暇」(σχολή, scholē)といった概念は、単なる労働からの解放という以上に、人間形成(パイディア)、市民生活、あるいは高次の精神活動と密接に関連付けられていました。特にプラトンとアリストテレスは、それぞれ異なる視点からこの「遊び」の概念に光を当て、その倫理的、政治的、形而上学的な意義を探求しています。プラトンは「遊び」を教育や徳の形成、さらには国家の秩序維持に不可欠な要素と位置づけ、アリストテレスは「遊び」を労働の休息としてのレクリエーションと区別し、真の幸福としての「観照」(θεωρία, theōria)に至るための余暇の重要性を説きました。この二つの異なるアプローチは、後の西洋哲学における「遊び」の議論の原型を形成したと言えるでしょう。
本論:プラトンのパイディアとアリストテレスのレクリエーション
プラトンの「遊び」の概念:パイディアと真理への接近
プラトンにおける「遊び」の概念は、彼の教育論(パイディア)および国家論と深く結びついています。プラトンは、特に『国家』や『法律』において、「遊び」が子どもたちの性格形成や社会性の育成に不可欠であると論じています。
例えば、『国家』の初期教育に関する記述において、プラトンは子どもたちに「遊戯を通して教える」ことの重要性を強調しています。彼によれば、遊びは強制的な学習よりも効果的であり、自由な精神の発達を促します。 「子どもを教えるに際しては、強制を用いるよりも、彼らが何に優れているか、どのような遊びに熱中するかを観察し、それを通して指導するようにせよ」(『国家』536e、筆者意訳)。 ここで遊びは、単なる暇つぶしではなく、個々の才能を見出し、適性に応じた教育を施すための重要な手段として位置づけられています。
さらに『法律』では、プラトンは国家の成員が「神に喜ばれる遊び」に従事することの重要性を説きます。彼は、国家の市民が守るべき規範や美徳を、共同の祭りや舞踊といった「遊び」を通して体験的に身につけることを構想しました。これらの共同体の活動は、市民の間に結束を生み出し、国家の秩序と安定に寄与するものです。ここでは、遊びは個人の徳の形成だけでなく、共同体全体の倫理的・政治的統合の手段として機能しています。プラトンにとって、遊びは真剣な(σπουδή, spoudē)事柄の対極にあると同時に、真剣な事柄への準備段階、あるいはその達成に不可欠な要素でもありました。真の遊びとは、善と美を模倣し、それを通して真理に近づく営みであると彼は考えたのです。
アリストテレスの「遊び」の概念:レクリエーションとテオーリア
アリストテレスは、『ニコマコス倫理学』において、「遊び」と「幸福」の関係性を体系的に考察しています。彼は「遊び」を「レクリエーション」(διαγωγή, diagōgē)として捉え、それが「余暇」(σχολή, scholē)の活動の一部であると同時に、「目的それ自体」ではなく「手段」であるという明確な区別を導入しました。
アリストテレスによれば、人間は労働によって消耗し、その回復のためにレクリエーションを必要とします。この意味での「遊び」は、労働という目的のための手段であり、それ自体が究極的な幸福ではありません。 「幸福は休息の中にあるのではなく、活動の中にあるのである。なぜなら、余暇は労苦の目的であるからである。…しかし、レクリエーションは、その目的のために、労働から休息をとるために選ばれるものであり、それ自体が幸福であるわけではない」(『ニコマコス倫理学』X巻7章、筆者意訳)。
しかし、アリストテレスはさらに進んで、労働からの解放としての「余暇」(σχολή)こそが、真の幸福(εὐδαιμονία, eudaimonia)を実現するための条件であると論じます。この「余暇」の中で行われる最高の活動が「観照」(θεωρία, theōria)であり、これは理性的な魂の最高の徳に基づいた活動です。テオーリアはそれ自体が目的であり、自己完結的で、神的な活動に最も近いものです。
アリストテレスは、レクリエーションが余暇のための休息であるのに対し、テオーリアは余暇そのものの中で展開される最高の活動であると明確に区別しています。つまり、遊び(レクリエーション)は単に労働からの回復のための手段であり、真の幸福とは別の次元に位置づけられるのです。この区分は、後の哲学史において、遊びが持つ美的・観照的側面と、実用・手段的側面とを区別する際の重要な参照点となりました。
比較分析:二つの系譜の萌芽
プラトンとアリストテレスにおける「遊び」の概念は、多くの点で対照的でありながらも、後の哲学史における「遊び」の議論の二つの主要な系譜を形成する萌芽を含んでいます。
プラトンは「遊び」を、教育、倫理形成、そして国家の秩序維持のための積極的な手段と見なしました。彼の遊びは、模倣(ミメーシス)を通じて善と美に親しみ、真理に近づくための実践的な道程でした。これは、後のカントにおける「無目的的な合目的性」や、シラーの「美的遊戯衝動」に見られるような、遊びが持つ形成力、あるいは倫理的・美的自律性への繋がりを示唆するものと言えるでしょう。プラトンの「遊び」は、共同体の中で自己を形成し、徳を育むプロセスに深く関与していました。
一方アリストテレスは、「遊び」を労働からの回復としてのレクリエーションと、真の幸福としてのテオーリアを可能にする余暇とに厳密に区別しました。彼の「遊び」は、究極的な目的ではなく手段であり、それ自体が目的であるテオーリアとは質的に異なるものでした。しかし、アリストテレスが余暇の中で行われるテオーリアを最高の幸福と位置づけたことは、純粋な知的な活動や観照が持つ自己目的的な価値を強調するものであり、これは後の哲学史における芸術や美的体験が持つ自己充足的な「遊び」の側面、あるいは純粋な認識活動としての「遊び」の概念に接続される可能性があります。アリストテレスの議論は、目的としての「遊び」と手段としての「遊び」の差異を明確にし、遊びの多様な解釈への道を開いたと言えるでしょう。
結論:古代ギリシアにおける「遊び」概念の現代的意義と展望
プラトンとアリストテレスは、古代ギリシアにおいてすでに「遊び」の概念を単なる余暇の活動としてではなく、人間存在の根源的な側面や社会のあり方と結びつけて考察していました。プラトンの「遊び」は、教育を通じて個人の徳を形成し、共同体の規範を内面化する実践的な意味合いを持ち、アリストテレスの「遊び」(レクリエーション)は労働からの回復という機能的な側面を持つ一方で、真の幸福としての「観照」を可能にする「余暇」の重要性を強調しました。
この二つの異なるアプローチは、哲学史における「遊び」の概念が、教育、倫理、美学、認識論、そして存在論といった多様な領域で議論されるための豊かな基盤を提供しました。プラトンの系譜は、遊びが持つ規範形成や社会的統合の機能へと発展し、アリストテレスの系譜は、遊びが持つ自己目的性、あるいは知的な探求としての観照の側面へと展開していったと見ることができます。
今後の研究においては、この古代ギリシア哲学における「遊び」の概念が、中世スコラ哲学やルネサンス期を通じてどのように変容し、近代哲学における「遊び」の理論へと継承されていったのかを具体的に追跡することが求められます。特に、キリスト教神学における「遊び」の受容と変容、あるいは人間主義思想における「遊び」の復権といった文脈での詳細な分析は、哲学史における「遊び」の系譜をより明確にする上で不可欠な課題であると言えるでしょう。
参考文献
- プラトン. (2002). 『国家』 (藤沢令夫 訳). 岩波文庫.
- アリストテレス. (1967). 『ニコマコス倫理学』 (高田三郎 訳). 岩波文庫.
- フイジンガ, ヨハン. (2018). 『ホモ・ルーデンス:文化のなかの遊びについての一試論』 (里見元一郎 訳). 中公文庫.
- Guthrie, W. K. C. (1975). A History of Greek Philosophy, Vol. 4: Plato, the Man and His Dialogues, Earlier Period. Cambridge University Press.
- Guthrie, W. K. C. (1981). A History of Greek Philosophy, Vol. 6: Aristotle: An Encounter. Cambridge University Press.
- Vlastos, Gregory. (1981). Platonic Studies. Princeton University Press.